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文学がなくてもうまくやって行けるかもしれない現代に文学を読む理由

文学がなくてもうまくやって行けるかもしれない現代に文学を読む理由

芥川賞と直木賞の発表に際して、文学がなくてもうまくやって行けるかもしれない現代に文学を読む理由について考察してみようと思います。創造的行為の目的は、若干の対象をつくりだすことによって、或いはふたたびつくりだすことによって、世界の全体を取り戻すこととである。とサルトルは著書『文学とは何か』で述べました。

文学を全世界にひらかれた窓として、作品という窓から読者の自由に呼びかけ、ともに世界を取り戻してもらうことを求める。方向づけられた創造からの読者と作者の対話とし、読書という儀式を通じて、読者のその情念、その偏見、その共感、その性的欲望、その価値の尺度を贈与します。相対化及び並列化しあらゆるものが趣味の問題となってしまった、ミシェルフーコー以降の教養が不必要な時代において、文学の持つ一種の啓蒙的な雰囲気は拒絶の対象となり、作家が神に成り代わって共に世界を取り戻してもらうという文学者のおごりも、現代人は『うるせーよ』の一言で一蹴できてしまう。三島由紀夫の生きていた時代と社会は、彼に『その頭のよさにはなんの意味があるの?』という疑問を登場させなかったが、今となっては、その疑問が公然と登場しえるわけです。

作家は、悪い製作の方が良い製作より成功するものだということを統計によって示される。そして聴衆の悪趣味を知らされ、それを甘受するように頼まれる。大衆性なき、通俗性が横行する。サルトルは通俗性について『聴衆にたいしその本来の要求を知らせ、聴衆が読む要求を持つようになるまで聴衆を少しずつ高めるべきなのだ』と論じましたが、サブカル的に分断する社会において、それは難しいのかなとも思います。

文学なんかよりも、誰でも直ぐに使えているような気になれる表層的なビジネス書の方が売れますものね。『文学は時間の無駄』とブラックショールズ方程式さえまともに理解していない金融工学系の理系学生が言ってましたが、私はそうは思いません。核爆弾の開発は科学の領域でも、その使用を決めるのは文学の領域であるからです。もっとも、理系の形而下的なものにも魅了されるので、両方取り組みますが。