明日、近隣で祭りが催されます。ジョルジュ・バタイユは言います、祭りとは惜しげもない浪費であり、禁止への違反であり、動物性への回帰であると。なるほど、そう考えると祭りの本質が見えてくるような気がします。
日々の生活では、私たちは労働し、生産し、蓄積することに追われています。しかし、祭りの場では、この日常の論理が覆されるのです。浪費と蓄積。この一見相反する二つの行為が、人間の宗教的活動の根幹を成しているのではないでしょうか。 高まった禁止を違反することによって、エロティッシズムが生じ、この禁止の破壊が、惜しげもない浪費であり、それは、祭りになるのです。人間の内奥には、無益な消費によってしか得られない真の幸福への渇望が潜んでいます。私たちは常に、生産性や効率とは無縁の世界に身を置きたいと願っているのです。それは裏返された世界、逆転した世界への憧れとも言えるでしょう。
現代を見渡せば、私たちは英雄的な時代から遠く離れていることに気づかされます。これは好運であると同時に、人間の根源的な衝動のはけ口を失った状態でもあります。科学は核爆弾を開発しますが、それを投下するか否かの決断は、もはや科学の領域を超えた、宗教的次元の問題なのです。